築城年代は定かではないが鎌倉時代初期に菅和泉守道忠によって築かれたと云われる。 菅氏は淡路国三原郡野口村を拠点としていたといわれ、その後、菅氏あるいは野口氏を称している。
南北朝時代以降、菅実正は足利尊氏に従い、細川師氏が淡路守護となって淡路に入部すると菅氏もそれに従った。
天正9年(1581年)菅長宗のとき、織田信長の命により淡路に侵攻した羽柴秀吉らの軍勢により、志知城は降伏・開城した。秀吉は家臣の黒田官兵衛を志知城に置いて守らせた。
天正13年(1585年)加藤嘉明が一万五千石を領して志知城に入り、志知城が改修されと考えられている。文禄4年(1595年)加藤嘉明は六万石に加増され、伊予国松前に転封となり、その後は秀吉の直轄領となって代官が置かれたが、後に叶堂城に移され廃城となった。
志知城は県道31号線と県道477号線の志知交差点の南東一帯に築かれている。 志知城は複郭の平城であったとみられ、現在内堀に囲まれた本丸は東が一段低く、ここが二ノ丸とも呼ばれていた。西側には外堀跡と見られる水路と水田があり、北と南にも堀跡と見られる跡がある。
本丸の前に石碑と案内板が建っているが本丸は密集した竹林になっている。
県道31号線と県道477号線の交差点から南へ150m程行った所に東へ入る細い道がある。ここを道なりに進むと菅氏の菩提寺である声明寺に至るが、その手前付近から北側にある内堀を越えて畑に向かうあぜ道がある。それを入って行くと案内板と石碑に至る。