慶長5年(1600年)石川紀伊守によって築かれた。 文禄4年(1595年)志知城主加藤嘉明が伊予国松前に転封になった後は豊臣秀吉の直轄領となり、代官として石川紀伊守・三宅丹波守が派遣された。その後、慶長5年(1600年)までに志知城は廃城となり、新たに叶堂城が築かれ拠点となった。
石川紀伊守は関ヶ原合戦で西軍に属して敗れ、淡路国は阿波国徳島藩主蜂須賀氏の所領となり叶堂城は廃城となった。
叶堂城は三原川の河口付近に築かれた平城で現在は感応寺の境内となっている。 感応寺は元々この地にあったが、叶堂城築城に際して一時松原中に移り、江戸時代に入って蜂須賀家の所領となった際に再び叶堂城跡に移転したという。このとき、叶堂城の石垣の一部を残して改修されたため、現在は南面の隅部と西面のみという。