築城年代は定かではないが建武年間(1334年〜1338年)に河野通盛によって築かれたといわれる。 源平合戦での功により伊予守護に準ずる地位を得た。 しかし承久の乱で院側についた河野氏は幕府に破れると一族の多くは離散し衰退した。ただ一人河野通有は母が北条氏出身のため幕府側に属し後の元寇で活躍し衰退の危機から救った。
天正13年(1585年)秀吉の四国平定により小早川隆景が侵攻すると、当時城主であった通直は毛利元就の孫娘を奥方としていた関係から先鋒を勤めた村上氏の説得に応じ開城した。 平定後は伊予一国が小早川隆景に与えられたが、 天正15年(1587年)に筑前国名島へ移り福島正則が入封した。しかし、正則は国分山城に移ったため廃城となった。
湯築城は標高65m程の丘陵を中心に二重の堀を巡らせた平山城で、現在は道後公園となり、一部に復元された武家屋敷や展示施設がある。
中央に南北に長い丘陵があり、南端が小高く主郭となり、北と南に小郭、北下に南北に長い曲輪が付く。その周囲を内堀、さらに外堀が巡り、周囲は方形よりはやや楕円形である。
西側の外堀と内堀の間に湯築資料館があり、無料の展示施設となっている。この辺りに復元された武家屋敷二棟、庭園の池の展示がある。外堀は北東側が入隅になっており鬼門除けと思われる。
伊予鉄城南線、道後駅が西口に面している。周囲には多数の有料駐車場がある。
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