築城年代は定かではない。 建武2年(1335年)には北朝方の大森氏が南朝方の忽那氏と戦っており、この頃には築かれていたと考えられている。
室町時代後期には河野氏の重臣平岡氏の居城で、四国統一に向けて勢力を伸ばす長宗我部氏に対する押さえを担った。 天正13年(1585年)豊臣秀吉による四国征伐では平岡通倚も湯築城に籠もったが、河野氏は降伏し荏原城も廃城となった。
慶長5年(1600年)関ヶ原合戦では松前城主加藤嘉明が徳川家康に従って留守となっていた隙に、安芸毛利氏の家臣が伊予に上陸して松前城を攻めた。このとき、平岡通倚の弟平岡直房が毛利氏に味方して荏原城に立て籠もり戦っている。
荏原城は方形単郭の平城で、四方に高土塁と水堀が巡らされている。中世の平城でここまで遺構が良好に残されているのは全国的にも珍しく、大変貴重である。
四方を巡る水堀は地図で見てもはっきりとわかる規模で、南側中央やや東よりに土橋が架かり虎口となっている。