平安時代末期の保元・平治の乱の頃に河野通豊が築いたとする伝承があるが詳らかではない。
元弘・建武年間(1331年〜1338年)頃に大森次郎左衛門盛清とその子彦七盛長が築いて大森氏一族の居城となったという。
文亀3年(1503年)に荏原城主の平岡下総守が河野通宣に反旗を翻し、一時千里城を占拠したが、再び大森氏の居城となった。
豊臣秀吉による四国征伐ののち、伊予は小早川隆景の所領となった。このとき伊予で存続させるべき城の一つとして千里城が挙げられている。
千里城は銚子ダムの東に聳える標高592mの千里山(城山)山頂に築かれている。 現在は町指定史跡となっており登山道なども整備されている。
千里城は山頂から北東、そして西へと伸びる尾根に曲輪を連ねる連郭式の山城で全長はおおよそ300mと、この辺りでは大規模な山城である。
主郭は山頂にあり北東下に一段の腰曲輪、南東下は武者走りになっている。西下には空堀で区画された二郭があり、空堀には北端部に土橋が架かり、これがそのまま遊歩道になっている。
主郭から北東へ伸びる尾根には高い切岸の曲輪があり、その下方に二重堀切がある。この堀切は竪堀を鋭角に交わらせたような鋭い堀切で竪堀は大きく下へ伸びている。さらに少し降りた所にもハの字に竪堀が落ちている。
主郭から西へ伸びる尾根には二郭の下に三郭があり、その先に三重堀切がある。この堀切は大きく、特に城内側の二条は大堀切で数mの高さがある。
国道379号線から銚子ダム公園に向かって入っていく細い道がある。ちょうど千里城の南西尾根の部分がカーブになっており、ここに登山道入口の標柱が建っている。少し戻った所に駐車可能なスペースがある。(地図)
北側からだとかなりの比高があるが、この登山口からだと130m程である。
最寄り駅(直線距離)