築城年代は定かではないが文亀元年(1501年)頃に河野氏によって築かれたと云われる。
河野氏は土佐の一条氏の侵攻に備えるために大除城を築城し、重臣の大野直家(朝直)を入れて守らせ、その後は大野氏三代(直家、利直、直昌)の居城となった。天正13年(1585年)豊臣秀吉による四国征伐によって大除城も開城となり、その後、大野直昌は河野通直とともに安芸国竹原へ移り同所で没した。
文禄4年(1595年)加藤嘉明が松前城に六万石で入城すると、その重臣佃十成(つくだかずなり)が六千石を賜り、大除城代となった。
大除城は標高694.2mの山に築かれている。現在は山頂まで登山道が整備されているが、山は土取によって大きく損傷しており、一部の遺構も消滅している。
曲輪は山頂の主郭を中心に南西に二段、南東に二段を配している。主郭の虎口は小さな内桝形状となり、周囲は石垣で固められていたと思われる。現状では主郭の東側面にある石積1が残存度が良く、上下二段に積まれている。
主郭から西へ二郭、三郭と続いており、北側に土塁が残る。西端は堀切3と思われる浅い溝があり、その先に小さな石塁5がある。北西下にも堀切2があるが、この辺りは土取によって消滅している。
主郭から南東に伸びた尾根に曲輪ivとvがある。曲輪vには北側に石塁3があるが、この石塁は竪石塁となって伸び石塁4となる。石塁4の下部には岩壁の上に立派な石塁が残っている。
現状の登山道は曲輪iiへと入り、曲輪iもスロープで枡形状の空間に入るようになっているが『中世城郭事典』掲載の縄張図と比較すると、曲輪viを経て曲輪iiiに入るルートが描かれており、この辺りは後世改変されている可能性が高いようである。
国道33号線から槻木沢集落へ入るところに案内板がある。登山道は槻木沢集落から続いている。