築城年代は定かではないが南北朝時代から南朝側の拠点であった。
戦国時代は湯築城河野氏の支配下にあったが、天正13年(1585年)羽柴秀吉による四国征伐では小早川隆景の軍勢が攻め寄せ、城主村上武吉は戦わずして開城した。戦後、伊予一国は備後国三原城主の小早川隆景に与えられたが、天正15年(1587年)筑前国名島に移封となった。
天正15年(1587年)福島正則が十一万石で湯築城から入城したが、文禄4年(1595年)尾張国清洲に転封となる。その後は池田秀氏、小川祐忠と替り、慶長6年(1600年)関ヶ原合戦の功により二十万石に加増された藤堂高虎が宇和島から居城を移したが、高虎は今治城を築城し廃城となった。
国分山城は標高105.3mの唐子山に築かれており、現在は公園として整備されている。
国分山城の辺りは古代の中心地であり、近くには国分寺、国分尼寺、また遺跡は確認されていないが国府もこの辺りに存在した。
国分山城は唐子山に築かれた山城と東麓にある居館がセットになった城である。山城は南北に伸びた尾根に曲輪を展開しており、特に北尾根側に曲輪が広く展開している。本丸である山頂部にはかつて石垣が残されていたというが、公園化、展望台などの設置によって徐々に失われていったようで、現在はまったく確認できなかった。
東麓にある民家や畑となった台地の部分が屋敷跡で、東から南に掛けて切岸や堀跡が残されている。
遊歩道は北と南の両方から続いている。北の県道側にある今治藩主の墓の近くに国分寺に向かう道があり、これを入った所に3台ほどの駐車場がある。
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