築城年代は定かではない。
南北朝時代に南朝方の大館氏明が籠った。興国3年(1342年)後村上天皇は西国での勢力を取り戻すべく、新田義貞の弟脇屋義助を伊予に派遣する。しかし、義助は国分寺にて病没した。それを知った北朝方の細川頼春は阿波・讃岐の兵を率いて伊予に侵攻、南朝方最後の砦として笠松山城・世田山城で壮絶な戦いが四十日余り繰り広げられ落城、大館氏明は討死にしたという。
正平18年(1363年)河野通朝の籠る世田山城に細川頼春が侵攻し、斎藤某が細川氏に内通して兵を城内に導き落城した。その後も度々戦が繰り広げられたという。
城は標高339mの世田山に築かれており、笠松山城とは尾根続きである。
城は山頂の尾根伝いに曲輪や堀切が配置され、所どころ土留め程度の石積が残る。 また、東へ伸びる尾根や南西に伸びる尾根にも城郭遺構が残っているようである。
山頂から東の方へ少し降ると医王院(世田薬師)の「奥の院」があり、ここに大館氏明の墓がある。
登山道はいくつもあります。西条市(旧東予市)側の世田薬師栴檀寺から「奥の院」経由で登るのが良いでしょう。
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