興国2年・暦応4年(1341年)芥川義氏によって築かれたと云われる。 摂津国芥川の芥川義氏は、新田義貞の弟脇屋義助の伊予国下向に従って伊予に下向し築いたのが兵庫山城と云われる。
義氏の子兵庫助茂は北朝方の細川氏と戦って敗れ、城を捨てて逃れたが、宗信の代に伊予に戻り再び居城とした。
その後、兵庫氏は象ヶ森城の櫛部氏の家臣となっていたが、天正7年(1579年)金子城主金子元宅は象ヶ森城の櫛部氏を攻めると櫛部氏は城を捨てて逃れたが、兵庫将吉は踏み止まって防戦し討死した。
その後、竹田右京進が居城としたが、天正13年(1585年)豊臣秀吉の四国征伐で小早川隆景が伊予に侵攻し、兵庫山城も落城して廃城となった。
城は実報寺の南にある丘陵に築かれている。
丘は南北に長く、北側に主郭を配し、南側に物見台を置いて、その間を両端が低く中央が高い武者走りのような細長い削平地で結んでいる。
丘の西側から遊歩道がある。
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