築城年代は定かではない。
河野四郎為世の隠居城であったとも伝えられる。
南北朝時代に南朝方の篠塚伊賀守が籠った。興国3年(1342年)後村上天皇は西国での勢力を取り戻すべく、新田義貞の弟脇屋義助を伊予に派遣する。しかし、義助は国分寺にて病没した。それを知った北朝方の細川頼春は阿波・讃岐の兵を率いて伊予に侵攻、南朝方最後の砦として笠松山城・世田山城で壮絶な戦いが四十日余り繰り広げられ落城した。落城に際して篠塚伊賀守は敵中を突破し魚島へ逃れたと云う。
その後、岡大和守代々の居城となったが、天正13年(1585年)河野氏が滅亡すると笠松山城主岡彦三郎は下城し廃城となった。
城は標高357mの笠松山に築かれており、世田山城とは尾根続きである。
城は笠松山山頂に奉られた観音堂のある高台を主郭として西へ続く尾根に曲輪と堀切を配置している。この観音堂は城主篠塚伊賀守が落城して城を落ち延びる際に、兜の内側に秘めていた一寸八分の黄金観音像を山頂に安置して去ったのを、後に村人が祠を建てて奉ったのが始まりと云う。
2008年山火事によって全国ニュースにもなったのは記憶に新しい。 どうやらあまり利用されていない登山道を登ったようで、道が途中から明確でなくなり、はるか北の尾根上に到達した。這い上がったのは良いが火事によって焼け焦げた木々をかいくぐって登ってきたので、服は真っ黒である...。辺り一面焼け野原であるが、観音堂は死守したのか焼けずに残ったようで何よりである。
登山道はいくつもあります。世田山城と一緒に見るのであれば、西条市(旧東予市)側の方から「奥の院」経由で登るのが良いと思います。 旧朝倉村からは県道154号線沿いに大きな看板があります。
最寄り駅(直線距離)