築城年代は定かではない。寛正6年(1465年)讃岐の細川勝元が伊予に侵攻したとき、河野氏を援助した周防の大内政弘の軍勢が宅並城に入っている。
天正10年(1582年)宅並城主栗上左衛門尉と横山城 主南通方との間で水利争いがあり、栗上氏が南通方を謀殺すると、南通方の遺児亀寿丸(後の通具)が宅並城を攻め、栗上左衛門尉は城中で自刃したという。
宅並城は標高201mの宅並山山頂に築かれており、現在は登山道が整備されている。
南が唯一尾根続きとなる急峻な山頂に宅並城が築かれていたが、遺構は山頂部の削平のみで堀切などは見当たらない。
山頂部は正八幡神社の奥の院が鎮座しており、広く整備されている。東は緩やかに傾斜、西も多少平段らしきものがあるが、先端は緩やかに傾斜していく。
登山口は北麓の光祥台団地の一角にあり、駐車場も用意されている。国道沿いにある光祥台団地入口から道標が出ている。
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