築城年代は定かではない。建武年間(1334年〜1338年)に風早郡那賀郷の地頭職となった今岡四郎通任が築いたとも伝えられるが詳らかではない。
鹿島城の初見は明応8年(1499年)に河野通宣が「賀嶋家中」に出した掟書のようである。
天正年間(1573年〜1592年)初期には二神豊前守が城主で、後に来島城主村上(来島)通総の兄得居通幸が城主となった。天正10年(1582年)来島村上氏は、織田信長の部将羽柴秀吉の調略を受けて河野氏を離反し織田氏に付いた。河野氏は毛利氏とともに来島村上氏を攻め、通総は耐えきれずに来島城を脱して秀吉の元に逃れたが、鹿島城の得居通幸は固く守って攻撃を退けた。
秀吉の元に逃れていた通総も羽柴氏と毛利氏が和睦したのち旧領に戻り、天正13年(1585年)秀吉による四国征伐では小早川隆景の指揮下で先鋒を務めた。この功により風早郡一万四千石が来島通総に与えられ、通総は来島城を廃して鹿島城を居城とした。
慶長2年(1597年)来島通総は慶長の役で討死し、家督は次男の長親が継いだ。 慶長5年(1600年)関ヶ原合戦で来島長親は西軍に属し、豊後国森一万四千石で転封となり廃城となった。
鹿島城は北条港沖に浮かぶ鹿島に築かれている。 主郭は山頂で展望台があり、南側に穴の開いた旗立岩がある。山頂の主郭から北東側に向かって小さな腰曲輪が数段続き、北東山腹に広い二ノ段がある。 土塁や掘などは見あたらないが、主郭の南西側、二ノ段の南側に石積が確認出来る。
北条港(地図)から30分から20分間隔で定期船が運航されており乗船時間はわずか三分である。料金も駐車場込みで往復500円とお手軽になっている。
登山口は港のすぐ先にある。山頂まで整備させた遊歩道があり、野生の鹿に警戒されながら登っていく。
最寄り駅(直線距離)