応永26年(1419年)村上吉房によって築かれたと云われる。 村上吉房は村上義顕の三男で分家し築城した。
村上水軍三家のうち最も四国よりに拠点を構えた来島村上氏は主家河野氏の内紛に乗じて伊予本土にまで次第に勢力を拡大していく。 四代通康は河野通直が寵愛し後継者として指名した程であったが、これには河野家臣団の猛反発を喰らい反対派が来島を攻める第一次来島合戦が起こった。
天正10年(1582年)村上通総のとき、織田信長の部将羽柴秀吉の調略を受けて河野氏を離反し織田氏に付いた。河野氏は毛利氏とともに来島村上氏を攻め、通総は耐えきれずに来島城を脱して秀吉の元に逃れたが、鹿島城主で通総の兄である得居通幸は鹿島城を固く守って攻撃を退けた。
秀吉の元に逃れていた通総も羽柴氏と毛利氏が和睦したのち旧領に戻り、天正13年(1585年)秀吉による四国征伐では小早川隆景の指揮下で先鋒を務めた。この功により風早郡一万四千石が来島通総に与えられ、通総は来島城を廃して鹿島城を居城とした。
慶長2年(1597年)来島通総は慶長の役で討死し、家督は次男の長親が継いだ。 慶長5年(1600年)関ヶ原合戦で来島長親は西軍に属し、豊後国森一万四千石で転封となったが、三島村上氏で唯一江戸時代に大名となり、久留島氏と名を改め明治まで続いている。
来島城は来島瀬戸に浮かぶ周囲1km程の小島に築かれている。現在も人が住んでおり、定期船が運航され簡単に渡ることができる。
来島城は島全体が要塞化された水軍城である。城の主要部は島の西側に南北に伸びた山で、北端の鉄塔のある所が主郭、南に向かって二郭、三郭と連なっている。島の中央の山腹にある心月庵が居館跡で、その脇に大きな窪地があり水が溜まっている。古図では堀と記されているが、貯水が目的であったように思える。
島の北側にある岩礁には桟橋を支えていた柱の穴(ピット)が無数に現存しており、干潮時には島を一周することができるようである。
島へ渡るフェリー(渡船)は波止浜港(地図)から出ている。本数は多くないので必ず時刻表を確認して行くのが良い。港には無料駐車場があるが、釣客などでほぼ満車であった。
このフェリーの客室に来島城の案内とパンフレットが用意されている。港へ渡れば道標があり、本丸まで山道が整備されている。港の西にある待合室内や御先神社脇に来島城の案内がある。
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