築城年代は定かではないが治承5年(1181年)以前に河野氏によって築かれたと云われる。
治承5年(1181年)河野通清が源氏に味方して高縄山城に挙兵するに及んで、備後国の奴可入道西寂が大軍をもって押し寄せたので、通清は日高・高穴・恵亮(恵良)の砦を守らせて防戦するも賓兵敵せず落城すると「河野家譜」に記されているという。
暦応4年(1341年)伊予宮方の土居通世が恵良城に籠って武家方の河野通盛と戦った。
室町時代には得能氏の支族得居氏の居城となるが、天文年間(1532年〜1555年)頃より来島村上氏の勢力が伸び、得居氏は村上通康の子通久を養子に向かえた。元亀3年(1572年)毛利氏の攻撃によって落城したが、豊臣秀吉による四国征伐の後も得居通久が三千石を領して居城した。しかし、関ヶ原合戦で来島氏は西軍に属して豊後国森へ転封となったため廃城となった。
城は標高302.1mの恵良山山頂に築かれている。中腹付近から上は急峻で所どころ岩が露出した要害の山である。
城は山頂にあって東側に恵良神社が奉られた高台がありここが本丸、西下に東西に広い二の丸がある。二の丸の南北の下側には東西に帯曲輪があって井戸跡も残っているらしいのだが、あまり明瞭ではない。
南麓にある最明寺を目指す。その手前に恵良山登山口の道標がある。不安だったので麓から歩いて登ったが、コンクリート舗装の道を登りつめると恵良神社の入口標高162m程の所まで車で行くことができ、若干の駐車スペースもある。
最寄り駅(直線距離)