築城年代は定かではないが河野氏によって築かれたと云われる。
河野氏の発祥の地とされる風早郡河野郷にあって河野氏の館跡とされる善応寺の背後の山に築かれている。
建武3年(1336年)河野通盛は居城を湯築城へと移したが、この時河野氏の居館を菩提寺の善応寺として改修したという。
天正13年(1585年)豊臣秀吉の四国征伐で小早川隆景によって攻められ、二神氏の守る高穴城が落城し、雄甲城、雌甲城も落城したという。
城は河野氏の居館跡である善応寺の東背後の雄甲山の西端に築かれており、雄甲城とは尾根続きである。