築城年代は定かではない。 文応から文永(1260年〜1274年)頃に山名氏正の居城であったと云われる。
天文22年(1553年)毛利氏が八幡原元直に三原要害への在番を命じており、この三原要害が桜山城とも推測されている。
その後の動向は定かではないが、小早川隆景が三原城を築いたときに詰丸として整備されたとも考えられている。
幕末の慶応2年(1866年)に桜山に堡塁が築かれ、山頂と山麓に大砲が据えられたという。
桜山城は三原城天守台の北東に聳える標高175mの山頂に築かれており、現在は登山道が整備されている。
桜山城は南北に伸びた尾根に沿って曲輪を展開し、南端が一番低く、北端に向かって段々高くなっていく。三原城が築かれて以降の山陽道は南麓を通っているが、それ以前は北側を迂回していたとも云われ、南側は河口で海にも近かったと思われる。
南北に長い山頂部に曲輪が展開しており、北端が主郭となる。主郭Iから曲輪IIの北半分ほどが土塁囲みで、南端の曲輪IIIのあたりも一部土塁状の高まりが確認できることから、全体的に土塁で囲まれていた可能性がある。また、腰曲輪IV、V、VI、VIIも全て土塁囲みになっており曲輪VIIは特に内側に二段になった低い石積みを伴っているのが特徴である。
井戸は主郭Iに石組井戸があり現状深さ約4mである。曲輪IIにも大きな井戸があり現在も水がある。また曲輪IIIの西下に岩盤を削った井戸が2か所残されている。
北尾根は岩盤を堀切石積で補強した堀切1が北端で、主郭の北下に二重堀切2がある。東側面には畝状竪堀群3が確認でき、下方は横堀状になっている。一方西側は腰曲輪VIの下方に横堀4があり、そのまま北へ伸びた堀切1と接続している。南尾根側は堀が見当たらない。
広島大学付属三原小中学校の東側の道路沿いに登山道入口の看板が出ている。北側の鞍部からは東光寺や西側にも降りるルートがあるが、南東側から登るのがわかりやすい。駐車場はない。
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