築城年代は定かではないが永正年間(1504年〜1521年)に在地の土豪によって築かれた篠原城がはじまりと云われる。
本郭的な築城は天正15年(1587年)豊臣秀吉による九州征伐の後、筑後国御井・上妻・三潴三郡を七万五千石を与えられた小早川秀包によるものである。秀包は安芸の毛利元就の九男で、兄である小早川隆景の養子となって小早川秀包とも名乗っていたが、文禄3年(1594年)小早川隆景が豊臣秀吉の養子である木下秀俊(後の小早川秀秋)を養子に迎えたことにより別家をたてることになり、後に毛利姓に復姓している。
慶長5年(1600年)関ヶ原合戦で毛利秀包は西軍に属して戦ったが敗れ、わずかな兵力しかいなかった久留米城は黒田孝高や鍋島直茂などに攻められ開城勧告に応じて開城された。
毛利秀包は戦後改易となり、代わって三河国岡崎から田中吉政が筑後一国で柳河城に入封し、久留米城は支城として嫡子吉信が入った。
元和6年(1620年)田中忠政が嫡子なく除封されると丹波国福知山から有馬豊氏が二十一万六千石で入封し以後明治に至る。
久留米城は筑後川を天然の濠とした比高15m程の高台に築かれている。 現在本丸には篠山神社や有馬記念館が建っている。
本丸は南北にやや長い長方形で周囲は高石垣となっている。天守は上げられなかったが、艮櫓、乾櫓、月見櫓、巽櫓、坤櫓などが三重櫓として上げられた。本丸虎口は南と東の二箇所で、大手は南の桝形虎口で冠木門があった。東の虎口は月見櫓脇にあり石段がある。
本丸の南に二の丸(石碑の位置)、さらに南方に三の丸(石碑の位置)があり、それぞれ道路脇に石碑が建っている。三の丸の南東側に外郭があり市街地となっているのだが、福岡地方裁判所の東にある駐車場の脇に外郭の土塁と掘の名残が残されている。
西の丸水之手門(移築 城門)
本丸の東下に無料の駐車場がある。
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