築城年代は定かではない。
『高良山地名之事』に「住厭、城跡アリ、大谷ノ上、杉城トモ云、菊池氏ハ千千五百騎ニテ籠城也」とあり南北朝時代に菊池氏によって使用されていたと考えられる。
戦国時代には高良座主が勢力を持っており、それに関連する城郭とも考えられている。また豊後の大友氏の軍勢が高良山に布陣して筑後や肥前の龍造寺氏を攻めており、それに関連する城郭とも考えられている。
住厭城は高良神社と高良山にある毘沙門岳城(別所城)との間にある東西に長く伸びた山に築かれており、現在は登山道が整備されている。
東西に長く伸びた丘陵に曲輪を連ねているが、全体的に削平は甘く自然地形を残す。
西側の曲輪I、IIは西端の最高所の部分が展望台になっているが、塚状の高まりが残されている。曲輪I、IIは城内では比較的削平状態が良く、曲輪IIは北側に土塁を備え、その下方に畝状竪堀群6を設けている。曲輪IIの東端北側の部分に石積が確認できる。
曲輪IIIは東西に長い曲輪で東端が一段小高くなっている。北側には横堀3があり、その上部にも一部横堀になっている部分があり、上下二段になる。中程に二条の竪堀があり、東側は竪土塁を伴う。曲輪は北側には土塁がなく、南側に土塁状の高まりがあるが、登山道によるものかもしれない。
曲輪IVは東端に位置し、東側に土塁を設け、堀切1で遮断している。
高良神社を目指せば良い。山上にある駐車場から多良神社に向かい、その脇から高良山神籠石の列石がある。ここから山上に登り東へ進めば主郭に至る。
最寄り駅(直線距離)