築城年代は定かではない。
明応7年(1498年)綾部城を攻めた少弐氏が大内義興の軍勢に敗れたとき、中野構に集結して楯籠もり、大内氏に攻められ落城している。これが中野城と考えられている。
戦国時代の永禄年間(1558年~1570年)には馬場鑑周が城主で三根郡東部を支配していたが、天正3年(1575年)龍造寺氏によって攻められ、降伏開城し、鑑周は杵島郡小田に移された。
中野城は筑後川の土手となった国道264号線北側に隣接して一部が残されている。
周囲は水田や宅地であるが、主郭部分と考えられる土壇部分に権現祠が祀られ、隣接する納骨堂のあたりも曲輪の一部と考えられ、その間に堀のような溝が残る。