貞和6年(1350年)在地領主であった板部成基が、九州に下向してきた足利直冬に所領の安堵を求め、これを安堵されており、この中に田島一帯が含まれていた。
天文22年(1553年)西島城主の横岳資誠と千代童が、先代の横岳資貞の供養として光浄寺に「田嶋大屋敷、同所前之早田二段」を寄進しており、横岳氏の大屋敷は田島環濠集落の東に隣接していた。
田島環濠集落は光楽寺一帯の環濠集落で、クリークの名残を留める部分もあるが、圃場整備などによって整地されてしまった。東側には「大屋敷」と呼ばれる方形の区画が残っていたが、これも圃場整備によって消滅している。