筑後 西鯵坂城ちくご にしあじさかじょう
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案内板によれば、『筑後誌』に「筑紫上野介家宗が拠りし所なり、縦六十間、横二十間の平城なり」、宗氏代々の居城で、島津氏の北上戦で城主の宗統家が立て籠もったが全滅したという。
西鯵坂城は宅地や田畑で遺構ははっきりしないが、城公民館の所に石碑と案内板がある。この案内板では「ここから南東200mの大樟の下に石の堂があり、ここが城の中心」とある。城公民館の東に鯵坂校区公民館という新しい公民館があり、ここに鯵坂庄の案内板があるが、これによれは、城公民館のすぐ南側が城であったようだ。