築城年代は定かではないが永正年間(1504〜1521年)に田村義顕によって築かれたと云われる。平姓田村氏は義顕の時、守山城より三春城へ居城を移したとされる。
天正14年(1586年)田村清顕が死去すると、家臣団は清顕の娘婿(愛姫)である伊達政宗派と清顕の正室(相馬顕胤の女)方の相馬義胤派に分かれて争いとなった。天正16年(1588年)相馬義胤が三春城へ入城しようと画策するが失敗し、郡山合戦に勝利して三春城に入った伊達政宗は清顕後室を船引城に隠居させ、清顕の甥の田村孫七郎顕季を宗顕と名乗らせ田村家の当主に据えた。
天正19年(1591年)伊達政宗が岩出山城にに転封となると田村家臣もこれに従った。
寛永4年(1627年)会津藩主加藤嘉明の三男明利が三万石で三春城主となったが、翌年二本松城主松下重綱が急逝すると明利は二本松城へと移り、替わって二本松城から松下長綱が入った。正保元年(1644年)松下氏は改易となり、正保2年(1645年)常陸国宍戸から秋田俊李が五万五千石で入封し明治に至る。
尚、田村家は寛永年間に伊達忠宗の三男宗良が幕府の許可を得て再興させ一関藩を立藩した。
三春城は三春町役場の北東に聳える標高407.8mの城山に築かれおり、現在は城山公園として整備されている。
三春城は現在の公園の案内に従うと、山頂に本丸、本丸の西下に二の丸となっている。ただ、絵図によっては山頂に本丸、西の二の丸散策道の所にある曲輪群が二の丸、南東の東館を三の丸とするものがある。
本丸、二の丸辺りは石垣造りであったようだが、現在は本丸側面と二の丸の一部に石垣が少し確認できる程度である。大手は南からで、二之門、揚土門、三之門、大門と続いて山頂に至り、搦手は北にあった。
現在の三春小学校の所に藩校明徳館の表門が現存している。
藩構所表門(移築 城門)
南の県道40号線が城坂と呼ばれる道があり、主郭下に駐車場がある。
最寄り駅(直線距離)