建仁3年(1203年)宍戸家政によって築かれたのが始まりとされる。 宍戸氏は八田知家の四男家政が常陸国宍戸荘地頭職となり、宍戸氏を称したことに始まる。 小田城の小田氏、下野国茂木城の茂木氏などは同族である。
元弘3年(1333年)宍戸知時の子朝家は足利尊氏に従って六波羅を攻め、その功によって安芸国甲立荘を賜わり、建武元年(1334年)甲立に下向し、はじめ柳ヶ城を居城としたが、後に五龍城を築いて移った。この家系が毛利元就の長女五龍局を正室に迎えて一門となった安芸宍戸氏で、江戸時代は一門筆頭として長州藩家老となっている。
宍戸氏は当初小田氏に従っていたが、佐竹氏の勢力が拡大し、小田氏が衰退すると佐竹氏に属していくこととなる。天正18年(1590年)小田原征伐に参陣した佐竹氏は、秀吉より常陸大半の領有権を安堵された。これにより水戸城の江戸氏を攻めると、宍戸義綱は江戸氏に荷担して佐竹氏と戦い討死した。義綱の子義長は鹿島へ逃亡、宍戸宗家は佐竹氏と親密な関係にあった義利が継ぎ、文禄4年(1595年)には海老ヶ島城へ転封となった。 義利が没すると宍戸義長が家督を継いだが、関ヶ原合戦後に佐竹氏は出羽国秋田へ転封となる。しかし宍戸義長は秋田へは従わず土着している。宍戸氏の一族のうち秋田へ移ったものもおり、茂木氏とともに出羽国十二所城に配された。
慶長7年(1602年)出羽国秋田より(安東)秋田実李が五万石に減封され宍戸城に移された。この実季によって近世宍戸城が築かれたものと考えられている。 秋田氏は正保2年(1645年)秋田俊季のとき、陸奥国三春へ五万五千石で転封となり、幕府直轄領となった。
天和2年(1682年)徳川光圀の弟松平頼雄が一万石を与えられて諸侯に列し、宍戸に陣屋を設けて支配した。以後、松平氏が代々続いて明治に至る。
宍戸城は現在市街地となっており、遺構はほぼ消滅している。わずかに残る遺構は国道355号線沿いにある旧陣屋の末廣稲荷神社で、この神社が鎮座しているのが土塁の上である。また、笠間市土師の県道30号線沿いにある民家に陣屋の表門が移築現存しているが、いつの災害の影響なのかわからないが、案内板は倒れ瓦も吹き飛んでしまっている。
表門(移築 長屋門)