建武元年(1334年)宍戸朝家によって築かれたと云われる。 安芸宍戸氏の祖、宍戸朝家が安芸国高田郡甲立荘に下向し最初に築いたのがこの柳ヶ城とされ、後に南側の山に五龍城を築いて居城としたという。
しかし『安芸高田お城拝見』、『安芸宍戸氏-毛利一族、四本目の矢(安芸高田市歴史民俗博物館)』によれば、近年の研究では南北朝時代の宍戸氏は柳ヶ城と五龍城、それぞれを居城とする二派に分かれてたが、明応5年(1496年)に五龍城を居城とする宍戸氏が細川管領家によって滅ぼされ、柳ヶ城主の宍戸氏が五龍城に入ったと考えられている。
柳ヶ城は五龍城の北側にある標高385.2mの菊山から派生した標高250m程の尾根上に築かれている。
主郭は南側最高所のIで南に向かって段を築き、最下段が曲輪IIとなる。主郭の削平はやや甘く小さな段差があり、北端は幅広の土塁になっている。
主郭から南へ続く段は南の切岸はしっかりしているものの、側面は甘く境界が不明瞭な部分もある。
曲輪IIの東側面には畝状竪堀群4、曲輪IIIの東側面にも畝状竪堀群3が確認できる。一方西側は曲輪IIの西側面に竪堀らしき地形(竪堀群5?)が確認できるものの、このあたりは地表面が荒れていて自然地形の可能性がある。また曲輪I、IIIの西側面は切岸のみで、東西両側に同じような谷地形が入っているにも関わらず、東側のみ竪堀群が存在しており、こちらからの攻撃を警戒していたことがうかがえる。
主郭Iの北側は堀切2で遮断する。この堀切は西側は竪堀がそのまま谷まで伸びているが、東側は主郭に巻き付くようにやや湾曲し、外側に畝状竪堀群3がある。
北端は二重堀切1で遮断しており、この間にあるIIIはほぼ自然地形のようであるが、畝状竪堀群3があることから曲輪として機能していたと考えられるる。
国道54号線沿いに甲立多目的広場、甲立古墳の看板があり、それを登った所に駐車場がある。
駐車場から甲立古墳(国指定史跡)への遊歩道があり、そのまま山道を進むと城跡の北側にたどり着く。
最寄り駅(直線距離)