永正6年(1509年)宍戸元家によって築かれた。 五龍城主宍戸元家は嫡男宍戸元源に家督を譲り、次男隆兼を連れて祝屋城へ移った。
元家は永正6年(1509年)に没し、祝屋城を継いだ隆兼は深瀬隆兼と名乗なり、宍戸氏の分家となった。
天文9年(1540年)尼子晴久による吉田郡山城攻めでは、先発隊として尼子国久の軍勢が志和地の八幡山城に布陣し宍戸氏を攻めたが、宍戸元源や深瀬隆兼により撃退された。
祝屋城は可愛川(江の川)とその支流に挟まれた北東へ張り出した尾根の先端頂部に築かれている。
祝屋城は東西二郭で、東の頂部が主郭、西下の尾根は教得寺跡とも伝えられる曲輪群である。
主郭は東西に長く中央に小高い土壇があり、西端は土塁が付いている。東端は北と東下に馬蹄形の小段が付いている。主郭の南下には西端に土塁を持つ腰曲輪と井戸のある腰曲輪が残る。
西曲輪との間は高い切岸と幅広の堀切になっている。西曲輪は東端部に一段下がった方形区画があり、西端がやや高い。西側の切岸は曖昧で西尾根に細い堀切が残る。
この西曲輪にあったと伝えられる教得寺は、現在の浄土真宗本願寺派 正源山教徳寺として国道沿いに少し吉田町方面に進んだ所にある。その由緒書きによれば、開祖了西は宍戸元家の四男歌之介元隆で、五龍城主宍戸元源、祝屋城主深瀬隆兼の弟となる。
城山の南麓に登山口があり、石碑と案内板が建っている。
最寄り駅(直線距離)