築城年代は定かではないが佐々部氏によって築かれたと云われる。 佐々部氏ははじめ面山城を居城としていたが、享録2年(1529年)高橋氏が毛利氏によって滅ぼされた後に牛首城を築いて居城を移したという。
芸藩通志によれば、若狭守は家人信木に殺されたといい、信木とは信木城を居城とした信木某であろうか。
城は生田川に突き出た丘にあって北西を除く三方を川で囲まれた要害に築かれている。
主郭部には北端に櫓台があり辰之尾権現社が奉られている。南側に広い曲輪があり、その南にある曲輪は御屋敷跡として伝えられ、やや東に張り出して北側から東側面にl字状に内側を石垣で補強した土塁が残る。また曲輪の内部には段差が設けられている。
主郭部の北側、北西側からの登山道を登りつめた付近には土塁が残るが、残存状態が良くなく、折れを付けた土塁と竪堀の組合せなどが見えるが、いまいち曲輪の形状がわからない。
南東側の川沿いに降りた地点には二十条程の土塁が畝状に並んでいる。通常畝状竪堀群は曲輪から一段下がった帯曲輪から下へ向かって設けられることが多いのだが、この畝状竪堀群に似た遺構はほとんど麓近くの微傾斜に設けられている。また、その下部は等高線に水平に列石で遮られているが、これは後世の農地開発によるものだという。
県道322号線沿いに道標がある。「五十貫分集会所」の前に案内板があり、そこから山へ道が通じている。
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