築城年代は定かではない。 芸藩通志によれば応永2年(1395年)に宍戸氏の家臣青山忠義の居城であったという。 しかし、青山忠義は安芸宍戸氏の祖、宍戸朝家に従ってこの地にきたといい、朝家の安芸下向も応永2年(1395年)としていることから、年代については信用できない。
青山忠義の子、倉大夫義幸は宍戸朝家の命によって里社の奉祀となったという。
勝山城は県道4号線と県道179号線の浅塚三差路の北西にある標高310m程の城山に築かれている。
現在麓から遊歩道が付いているが主郭部にはテレビアンテナがあるのみで、特に案内板もなく公園化されているわけではなさそうだ。
主郭は山頂の南端で南に帯曲輪があり少し石積がある。北東の尾根は大きく堀切によって遮断している。南端から南西側の尾根に馬蹄形の曲輪が連なっているようであるが、遊歩道が貫通している。
南西尾根の先端から南へ派生した尾根にも曲輪群があり、南へ数段の削平地がある。 また主郭の南下から南へ派生した尾根にも曲輪が連なり、これもかなり下の方まで続いている。
昔の学校跡が公園になっており、その北側に遊歩道が見える。民家の脇から動物除けの柵を越えて登ることができる。(地図)
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