天文9年(1540年)尼子晴久が三万の大軍を率いて吉田郡山城を攻めたとき、周防の大内氏が派遣した陶隆房率いる一万の軍勢が12月3日に山田中山に着陣し、翌1月10日に郡山尾根続きの天神尾に陣替えしている。この天神尾が天神山城とされている。
天神山城は吉田郡山城から西へ伸びた尾根の先端が西と南に分岐する地点に築かれている。
尾根の分岐点にある曲輪iは櫓台状の小さな土壇で南へ伸びた尾根に曲輪ii、西へ伸びた尾根に曲輪iiiとiv、南西の谷間に曲輪vがある。主郭の東背後は天然の鞍部を利用した大堀切となっており、下部には浅い堀1が残る。特徴は尾根の北側面に設けられた三条の連続竪堀である。曲輪の側面ではなく背後の尾根側面に設けており、これは多治比猿掛城とも類似する。南側面にはなく北側面にしかないのは、南は郡山城とも連携して城内側であるからだろう。
西の尾根先にある堀状地形(堀4)は自然地形のようでもあるが、南側を削り込んでいるように見える。
西麓の細声峠側に船山社への参道が付いている。ここからさらに谷間を登る道がある。
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