築城年代は定かではないが南北朝時代に渡辺氏によって築かれたと云われる。 渡辺氏は摂津国西成郡渡辺発祥の嵯峨源氏で、建武3年・延元元年(1336年)毛利時親が安芸国吉田に下向したときに随行し、代々毛利氏の重臣として仕えた。
大永4年(1524年)渡辺太郎左衛門勝は、日下津城主坂広秀らと尼子の重臣亀井秀綱と通じて、毛利元就の異母弟である相合元綱を擁立しようと画策したが、陰謀は露呈し一族は誅殺された。 このとき、勝の嫡男虎市は乳母に連れられ備後国甲山城の山内首藤直通を頼って難を逃れた。勝の妻(通の実母?)が庄原元祐の女であったことからであろう。
虎市は後に渡辺太郎左衛門通と名乗り毛利家臣に復帰した。天文12年(1543年)毛利元就は大内義隆に従って尼子氏の居城である出雲国月山富田城を攻めたが総崩れとなった。 毛利元就も安芸へ逃れようとしたが尼子の追撃が激しく危うくなった。このとき渡辺通は毛利元就の甲冑を着用して身代わりとなり、尼子の追撃を引き受け討死した。
渡辺通の功によって渡辺氏は重用されるようになり、通の嫡男渡辺石見守長は天文19年(1550年)に下麻原(下小原)三百貫と代官職に任ぜられている。
長見山城は戸島川と山田川が合流する地点の北側にある標高241mの独立峰に築かれている。現在は主郭にお堂があり参道がつけられているが、あまり手入れされておらず荒れている。
中心となる曲輪群はIで、お堂のあるI1が主郭となり周辺にI2、I3の段がある。参道によって一部改変を受けているが、尾根を遮断する堀切があり、西側面には畝状竪堀群が確認できる。
南西尾根の先端には出丸となる曲輪群IIがある。最高所II1は北背後に土塁があり南に向かって段を造成する。東側に通路が構築され一部竪堀がある。北背後は切岸が高く自然傾斜も含めて堀切7になる。
主郭から東へ伸びた尾根は緩斜面で一部加工された地形が残る。東端の溝Aを堀切とするなら城域に含まれるが傾斜も緩く積極的に堀切とはみなせない。
誅殺された渡辺氏の一族を祀った「渡邊七人塚」が個人宅の裏に残っている。 宝篋印塔や五輪塔などバラバラであるが石塔五基がある。
登口は南麓の民家の裏側にある。東のほうにある墓地の近くから民家の裏側にある道へ入っていくことができ、その途中に長見山城登口の石碑がある。
「渡邊七人塚」は城山の北側にある内長見地区にある。(地図)
最寄り駅(直線距離)