天文9年(1540年)尼子晴久によって築かれた。 天文9年(1540年)尼子晴久は毛利氏の本拠を攻める為に安芸へ侵攻し、当初は風越山城に陣を構えていたが、九月なって郡山城と多治比川を挟んだ対岸にある青山三塚山(青山と光井山)に陣を移した。このとき築いたのが青山城で隣の光井山城とともに青光山城とも呼ばれている。翌天文10年正月に尼子氏は陣を引き払っている。
青山城は郡山城から多治比川を挟んで南西にある青山山頂に築かれている。
青山城は山頂を中心に北東、西、東、南西の尾根にそれぞれ曲輪を配している。 同じく尼子氏の陣城とされる光井山城と異なり、一つ一つの曲輪の規模は大きく、切岸も高くしっかりしている。明確な虎口は殆ど見あたらない。
山頂の主郭部は長方形の土壇を中心に三方を囲む帯曲輪と、残り一方の二段になる。北側は裾野に沿って溝があり、北西端が土塁のスロープになり虎口のようである。
主郭から南西へ伸びる尾根は土橋の架かる堀切を経て曲輪があり、さらに堀切を経て南へ続く。
主郭から東へ伸びた尾根には階段状に曲輪が連なり、切岸も高く標高320m付近に大きな堀切が一条ある。
主郭から北西へ伸びた尾根にも削平地があるが、曲輪としては不明瞭な部分が多い。浅い堀切、竪堀、屈折した土塁などが確認でき、北側へ雛壇状の小段が連なる遺構もある。
主郭から北東へ伸びる尾根が主線で、曲輪は広く切岸も高いが土塁が付いているのは、途中に一郭確認できる程度である。この曲輪は南西を除く三方に土塁が付いている。 先端部分に進むにつれ削平地は不明瞭になり、自然地形に近くなっている。
整備された道はない。光井山城との間に峠道があり、その山頂付近に車を駐める余白がある。(地図)そこから民家のある辺りまで郡山城方面に降りると未舗装の道が青山方面に続いている。これの途中から土手を乗り越え小川を渡り、山に取り付くと西尾根に登ることができる。北東尾根は途中まで降りてみたが歩きやすいので、こちらからでも登ることができそうだ。
最寄り駅(直線距離)