詳細不明。毛利元就の異母弟相合四郎元綱の居城と伝えられる。
毛利家の家督相続争いで、尼子方に担ぎ出された相合元綱は、大永3年(1524年)から大永5年(1525年)頃に毛利元就の家臣志道広良によって船山城を攻められ討死したという。
船山城は吉田郡山城から西へ伸びた尾根の先端部分にあり、東西に長い丘陵に築かれている。
中央にある堀切で区画して東西二郭となる。西曲輪は東西両端がやや高く、東は堀切に面して土塁があり、西端は馬蹄形の不自然な土壇があるが、櫓台のようでもある。
東曲輪は東西に長い曲輪が最高所にあり、南に向かって帯曲輪を数段重ねている。大部分が墓地として利用されていたようで細部は改変されているように思える。
東側の細越峠側にある船山社入口に船山社と船山城の案内板が建っている。麓の墓地脇から山上に登る道が付いている。
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