建武3年・延元元年(1336年)毛利時親によって築かれた吉田郡山城(旧本城)が始まりで、毛利元就の時代に全山要塞化され、天正19年(1591年)毛利輝元の時代に広島城を築いて居城を移すまで、毛利氏累代の居城であった。
天文9年(1540年)出雲国の戦国大名尼子晴久は三万余りの軍勢を率いて郡山城を攻めた。第一次侵攻は新宮党の尼子国久が備後路から江の川沿いに安芸国へ攻め入るべく志和地の八幡山に布陣したが、毛利元就の娘婿で五龍城主の宍戸隆家と祖父宍戸元源、その一族で祝屋城主深瀬隆兼などによって撃退された。
これにより同年8月に行われた第二次侵攻は石見路から安芸へ入り、風越山城へ布陣しさらに領内に入り青山城・光井山城へ布陣した。その後、郡山城と尼子が布陣した青山・光井山との間にある多治比川沿いで戦闘が繰り広げられると、やがて大内義隆からの援軍である陶晴賢も到着した。年が明けて天文10年正月毛利と大内勢は尼子方への攻撃を開始し、やがて陶晴賢が背後から尼子晴久の本陣を攻めると、尼子の本陣は大混乱となり、尼子久幸が討死する捨て身の防戦によって危機を脱したが、尼子氏はそのまま夜陰に紛れて出雲へ退いた。
郡山城は可愛川(江の川)と多治比川の合流地点の北にある標高402mの郡山山頂に築かれている。
本丸は山頂にあって北に櫓台がある。本丸から南へ二の丸・三の丸と続きこの辺りは崩れた石垣や石塁が残る。この主郭部を中心として周囲へ広がる尾根に曲輪群を設けている。
三の丸の南東に厩の壇さらに下に馬場。本丸の北東尾根に釜屋の壇、堀切を経て羽子の丸。本丸の北尾根に姫丸の壇。本丸の北西尾根に釣井の壇。本丸の西尾根に御蔵屋敷、さらに勢溜の壇と続く。
勢溜の壇から降りて南下へ回ると満願寺跡、さらに東へ回って妙寿寺跡、少し登って馬場となる。
勢溜の壇の方へ戻り南へ降ると尾崎丸。さらに東南東の尾根へ進むと旧本城に至る。
国道54号線と県道6号線の安芸高田消防署前の交差点を北へ進むと歴史民俗資料館があり、この辺りにいくつか駐車場がある。 公共交通機関の場合、広島バスセンターから吉田出張所行きのバスが出ている。jrは向原駅が近いが、そこからのバスは本数が少ない。
郡山城へ登る道はいくつかあるが、「民俗資料館」から「伝御里屋敷(毛利元就像・三矢訓の碑)」・「伝元就火葬場」・「毛利隆元墓所」・「百万一心・毛利元就墓」・「本丸から周辺一周」・「尾崎丸」・「旧本城」・「郡山公園」と巡ると一通り見て回ることができる。
最寄り駅(直線距離)