築城時期に関しては諸説あるが南北町時代に宍戸朝家によって築かれたと云われる。
宍戸氏は源頼朝に仕えた八田知家を祖とする。八田宗綱の女八田局は源義朝の妾となって知家を産んだが、平治の乱によって義朝が誅せられると知家は八田局に抱かれて八田宗綱の元に走り宗綱の猶子として育った。
八田知家の四男家政が常陸国宍戸を領して宍戸氏を名乗り、安芸国高田郡も領した。元弘3年(1333年)知時の子朝家は足利尊氏に従って六波羅を攻め、その功によって安芸国甲立荘を賜わり、建武元年(1334年)甲立に下向し、はじめ柳ヶ城を居城としたが、後に五龍城を築いて移った。
宍戸氏は五龍城を本拠として次第に勢力を広げ郡山城の毛利氏とも争ったが、毛利元就の長女五龍姫が宍戸隆家と婚姻することで和睦した。以後、宍戸氏は毛利一門の筆頭として毛利氏の勢力拡大に貢献し、関ヶ原合戦後に防長二ヶ国に減封となった後は、周防国佐波郡右田へ移り、後に熊毛郡三丘で一万千三百石余りを領した。
五龍城は江の川(可愛川)と木村川が合流する地点の南側にある標高312mの山に築かれている。
五龍城は大きく三つのブロックがあり、尾根の先端付近にある櫓ノ段を中心とするブロック、本丸を中心とするブロック、そして最高所の御笠丸を中心とするブロックである。
櫓ノ段は背後に土塁を設け、その外側は自然の谷を利用した大空堀となり土橋が架かる。先端には宍戸司箭神社の祀られた尾崎丸がある。
本丸は背後に山城では珍しい腰巻土塁があり、その背後を大堀切で遮断している。本丸一帯は石積や石塁が多くあり、南側面の通路沿いにも多く見ることができる。本丸の北山腹に広い曲輪が多く点在しこの辺りも石積が多く残る。
御笠丸は標高312mの所にあり、ここも背後に土塁を設け、石積もある。御笠丸の背後は南北両側に連続竪堀を設けており、尾根の部分が土橋となる。竪堀は両側が互い違いになっており、土橋は蛇行する。この背後に足軽の段があり、井戸跡とされる凹みが残る。御笠丸の北側面にある腰曲輪は土塁があり、その先に放射線状になった連続竪堀、その東側面にも連続竪堀を見ることができる。
尾崎丸にある宍戸司箭神社は宍戸元家の三男で隆兼の養子となり祝屋城主となった宍戸家俊を祀ったものであるが、面白いので「芸藩通志」に載る由来を引用する。 「愛宕の神に祈誓し、苦修の余、其術神に通じ、飛行自由を得たり、後に其法を河野大蔵というものに伝え、元亀元年4月4日、深瀬の犬飼が原より飛去りて、山城の愛宕山に入りしが、今猶愛宕のみぎわ奇に祠字ありといえり、宍戸の故墟にも小祠を立て、司箭明神といはへり、像は天狗の状なり、今薙刀は司箭流と云、剣術は貫心流という、皆此人を祖とす。」
登山口はいくつかあるが、国道54号線の五龍トンネル北方にある「高宮別れ」を東へ曲り直ぐの甲立小学校前を右折し五龍橋を渡ると右手に鳥居と案内板があり、そこのスペースが駐車場。(地図)
最寄り駅(直線距離)