築城年代は定かではない。大内氏の御番城といわれ城主については詳らかではないが、桂兵部少輔元親、三丘隼人之介、倉田治部大夫、井原四郎兵衛などが「防長風土注進案」にあげられているに過ぎない。
桂兵部少輔元親は桂能登守元澄の三男。 倉田治部大夫は三丘城山に城を構え元就公に敵対して攻め落とされたと伝えられる。 井原四郎兵衛は安芸国鍋谷城主三尾四郎兵衛尉元尚のことで、萩藩閥閲録巻40 井原藤兵衛の項33に「就高水城番之儀」云々とあり、三丘嶽城の城番を務めていたことが確認できる。
三丘嶽城は島田川西岸に聳える標高318.8mの城山(三丘ヶ岳)に築かれている。 山頂から南北を主軸とする曲輪群と東下から北東へ連なる曲輪群、南に連なる曲輪群で構成されており、色々な所に石積が点在している。
主郭は曲輪iで三角点がある。この主郭の虎口は南東にあり小さい虎口ながら曲輪viiiと曲輪iiへ繋がる通路が残る。また南にある大きな石には柱穴と思われる加工がいくつか残っており、ここに物見櫓があったのかもしれない。
主郭から南へ続く曲輪viii,ix,x,xiは細長い曲輪で側面には所々石積がある。南端の曲輪xiにある岩には手水鉢のような大きめの穴が開いている。南麓からある登山道はこの曲輪xとxiの間に出てくるが、その下方に城内で最も規模の大きい石積(石1)がある。
主郭から東へ伸びた尾根にある曲輪iiと曲輪ivの間に両側に竪堀として落ちた堀3がある。この堀は珍しい形状で、曲輪iv側は土塁になっており、最下部に石が二つあり虎口のようにもなっている。
北東へ伸びた尾根には曲輪v、viと続くが曲輪vの北東端は一段低くなった地形があり、その側面に石積(石4)がある。北東端は城内最大の大堀切(堀1)で、その外側にも堀切が一条あり二重堀切になっている。
主郭の東から南へ伸びた尾根に続く曲輪iii、xii、xiiiはしっかりした通路や石積が多用されていることなど、本来の大手にあたる曲輪群かもしれない。曲輪iiiには礎石のような石が点在し、南端はl字になった石積があり虎口のようでもある。その下方からは屈折した通路が曲輪xiiへと続いている。曲輪xiiの北東に南北両側を石積(石3)で補強した平地があり、そこから東へ降りて行く道が付いている。
主郭の北には曲輪viiがあり、曲輪iiから通路が続く。この付け根の部分に竪堀が西へ落ちている。
主郭から西の平家ヶ城の方に続く登山道は二段の腰曲輪を経て堀切(堀2)を使って西へ続いている。北の県道は旧山陽道であるが大手は南であるらしい。
城山の南麓にある曹洞宗貞昌寺は三丘嶽城の大手門があった辺りで大内氏時代には城主の居館があった所と云われている。関ヶ原合戦後に防長二カ国に減封となった毛利氏の家臣で、安芸国生城山城主天野元政(元就の七男)がこの三丘へ移ったときに居館を構えた所という。その後、元政は毛利姓に復姓して右田へ移り、替わって一門筆頭の宍戸広匡が三丘へ移っている。
登山道は北の県道と南の貞昌寺付近からある。
北の県道は熊毛郡、玖珂郡境の標識の辺り(地図)からあり、鉄塔経由で平家ヶ城に登り、そこから少し降って西尾根を経由して主郭に達する。登山口の西側に駐車できるスペースがある。
南は貞昌寺の南から高速道路の下を北へ潜った所にあり、入口に駐車できる。(地図)
最寄り駅(直線距離)