築城年代は定かではないが鎌倉時代末期に右田氏によって築かれたと云われる。 右田氏は大内氏十五代大内貞成の二男盛長を祖とし佐波郡右田荘を領した。なお陶氏はこの右田氏から分流している。
右田氏は大内氏一族として山口に通じる山陽道と山口街道を押さえる要衝を領して代々続いた。しかし天文年間(1532年〜1555年)頃には右田氏の勢力は衰え、右田岳城は奈藤興盛と孫の内藤隆世が城主であった。
弘治2年(1556年)毛利軍が周防に侵攻すると内藤隆世は右田岳城に右田隆量(重政)・野田長房を城番として置いて高嶺城の大内義長に合流した。同年3月8日陶氏の居城若山城を攻略した毛利元就は若山城に陣を移すと右田隆量は毛利氏に降り、大内方の氷上の砦を攻略する功をあげた。その後右田岳城には毛利氏の家臣南方宮内少輔就正が入った。
右田隆量の子隆俊(大内義隆の里腹の子)は後に御郷康政(みごう)と名を変え江戸時代は三田尻御船手組として続いた。
江戸時代には萩藩毛利氏家老で一門の右田毛利氏が一万六千石を領した。右田毛利氏は毛利元就の七男元政が祖で、元政は安芸国米山城主天野氏の養子となって家督を継いでいたが後に復姓した。右田毛利氏ははじめ、三丘を領していたが宍戸氏との所領替えにより右田へ移っている。
右田岳城は標高426mの中峯を中心として北東の東峯、南西の西峯の三つの峯から成る右田岳の西峰に築かれている。麓から見上げると岩肌が露出したその山容はまさに天然の要害である。
城の遺構自体は西峯の南西隅に本丸、北東下に二の丸と伝えられる削平地があるのみで他は何もない。本丸の西下はやや緩傾斜(勝坂方面への降口?)であるが特に削平されているわけでもない。
なお南麓にある天徳寺は建久3年(1192年)源頼朝によって創建されたと伝えられ、寛永2年(1625年)毛利元倶が再建して右田毛利氏の菩提寺としたもので、右田毛利家代々の墓がある。またこの辺りには右田氏の居館があったともいわれる。
登山道はいくつかあるようですが、南麓にある天徳寺からの登山道が一般的なようで登山者用の駐車場は右田小学校の南側にある。
人気のハイキングコースのようで小学校低学年くらいのお子様からお年寄りまで多くの人が登っていました。本丸の西峯まではゆっくり歩いて50分程。
最寄り駅(直線距離)