弘治3年(1557年)大内義長によって築かれた。
弘治元年(1555年)陶晴賢が厳島合戦で毛利元就に敗れると、義長は毛利氏に備えて急拠築城することとなったが、毛利氏の侵攻が早く完成を見ないまま籠城することとなる。 大内氏に属してした諸将が毛利氏に寝返るなど次第に不利となり、義長は城を捨てて長門国且山城に逃走し長福寺で自刃した。
その後毛利氏は市川経好等を城番として置き城を補修した。 永禄12年(1569年)毛利氏は豊後国大友氏と筑前国立花城にて対峙したが、大友氏は大内義興の弟高弘の子大内輝弘に兵を与えて山口に侵攻させた。このとき高嶺城は市川氏の留守兵がわずかに守るだけであったが、市川経好の正室市川局が籠城兵を指揮して毛利の援軍が来るまで持ちこたえた。 輝弘は茶臼山に退きそこで自刃して果てた。
廃城年代は定かではないが、江戸時代初期、元和の一国一城令の頃に廃城になったと考えられている。
高嶺城は山口県庁の西に聳える標高338mの鴻ノ峰山頂に築かれている。 現在は大内氏城館跡(高嶺城,大内氏館,築山館,凌雲寺跡)として国指定史跡となり、登山道が整備されている。
高嶺城主郭は北側の最高所にあり、周囲は毛利氏時代の石垣で固められている。そこから四方に伸びる尾根伝いに段曲輪が広がっており、南東側は電波塔を挟んだ東側の尾根にも遺構が続いている。
見どころは主郭周辺の石垣、南西曲輪XIの先にある巨大な二重堀切3とそれに付随する畝状竪堀群4、曲輪VかVIIに降りる部分には虎口空間Aがあり、この方形の空間の周りにも石垣が残る。石垣は曲輪XXから南方に下ったところにも存在し、隅部は崩されている。
登山道は山口県庁の西にある山口大神宮(多賀神社)または西側の木戸公園から谷筋に入っていく公園から舗装路を使って電波塔に至る道がある。
電波塔まで車で行くことができるが、道は狭く登山者が多く歩いていることから、できれば公園の一番上にあるトイレを完備した駐車場に置いて歩いて登るのが良いだろう。
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