築城年代は定かではない。
弘治3年(1557年)大内義長の遺臣草場越中守・小原加賀守・河越伊豆守などが大内義隆の遺子問田亀鶴を奉じて挙兵したのがこの障子ヶ岳城で、長門守護代で荒滝山城主であった内藤隆春が反乱軍を鎮圧し、草場越中守などは討死、亀鶴丸も捕らわれて処刑となった。この問田亀鶴丸は大内義隆と内藤興盛の女との間に生まれた子で、隆春にとっては甥となる。
障子ヶ岳城は高嶺城の南にある標高118mの障子岳の南東の峰に築かれている。 「未指定文化財総合調査報告書 史跡-中世-編」には北西の山頂部を城址として記が付いているが、ここは自然地形で遺構はなく、南東の峰に遺構がある。「日本城郭大系」では反乱軍の急造の城とされるが、主郭に関してはしっかりと築かれており、長期間利用されていたように見える。
主郭は南東の峰の最高所にあり、切岸で一段小高く築かれている。内部は大きく四段に分かれており、西と南に虎口を開く。主郭の北西側は堀切で外側は土塁か小郭が付いている。主郭の切岸によってできた周囲の緩斜面には連続竪堀というほどではないが、堀切に近い部分に数条の竪堀が点在している。
主郭の南東尾根には二重堀切があり、その先に自然傾斜した曲輪がある。この曲輪は切岸のみで、北側に帯曲輪が付いている。
北麓に「スカイヒルズa」という集合住宅がありその辺りから山に入る道が付いている。(地図)
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