築城年代は定かではない。
大内氏の重臣で後に毛利家臣となった内藤隆春の居城と伝えられる。 内藤隆春の姉が毛利元就の嫡男毛利隆元の正室尾崎局であった。陶晴賢による大内義隆への謀叛には同調せず、厳島合戦の後は毛利氏に従って各地を転戦し、大内義長滅亡後は長門守護代となった。
隆春には嫡子がいなかったことから宍戸元秀の二男元盛を養子に迎えている。この元盛が佐野道可と名乗って大坂城に籠城した人物である。
廃城時期は不明であるが、毛利氏時代にも杉元重が在番しており、元和の一国一城令によって廃城となった可能性が高い。
荒滝山城は標高459mの荒滝山山頂に築かれている。登山道はもちろん城跡を散策するルートが整備され、その周辺の遺構を記した案内板が適宜設置されるなど、非常にわかりやすくなっている。
荒滝山城は山頂の主郭部(曲輪I群)と西尾根の西郭群(曲輪II群)、そして東尾根にある出丸(曲輪III群)で構成されている。
主郭(曲輪I群)は山頂にある曲輪I1を中心に東西北の三方に曲輪を展開する。西側の曲輪I6の虎口I1は発掘調査で石垣や階段などが検出されており、曲輪の西端には堀切に張り出すように天然の岩の上に石積を施した遺構もある。もう一つ重要な虎口と考えられるのが東のI2の部分で、I4とI9の間の堀切を通路として登るルートとなる。この虎口に到達するルートはI4、I9の横矢や堀切、畝状竪堀群7によって堅固に守られている。
西郭(曲輪II群)は主郭との間を四条の堀切4で遮断しており、さらに北側に放射線状畝状竪堀群1を設けている。曲輪はII1を中心としてII3まで東から北を中心に土塁で囲んであり、曲輪II3は西側に虎口II1を開く。この虎口から出ると日ノ岳に通じる北西尾根の登山道が続いているが、これを直接遮断するような堀は存在しておらず、北側を中心に防御遺構が広がっている。
東の出丸(曲輪III群)は曲輪III1を中心に東西に伸びた尾根に曲輪を連ねており、削平は十分であるが、全体的に切岸が甘く、比較的緩斜面地形が周囲に広がっている。しかしながら、北側面にはほぼ全体的に畝状竪堀群10を設けており、北に張り出す腰曲輪III4や犬走り程度の削平地もある。
一方南側は切岸が甘いものの石積みが随所にあり、特にIII1の南側面にある石積は場内で最も見やすく残っていると思われる。また堀切9に面した曲輪III2の西側面は櫓台ほどの広さはないものの、張り出しがあり、南に伸びた土塁まで石列が施されている。
出丸の虎口はIII1の西側に虎口III2、東側にIII1があるが、それぞれ曲輪III2と曲輪III3との出入りのための虎口と考える。
縄張図をひと目みてわかるように、全体的に北側面に畝状竪堀群を設け、虎口は南側につけていることから、北側からの攻撃を意識したものとなっている。また主郭の東西両尾根を堀切で厳重に遮断しているが、西郭、東出丸の外側の尾根には堀切が見当たらない。
登山口は山の南東中腹にあり、県道30号線から県道231号線に入って犬ヶ迫方面に進めば駐車場への道標が出ている。(地図)
なお、山の上のほうまで作業林道があるが一般車両は通行できない。
最寄り駅(直線距離)