築城年代は定かではないが問田長房によって築かれたと云われる。 問田氏は大内氏の庶流で十七代大内弘盛の弟長房が問田に住み、問田三郎と称して問田氏の祖となった。
問田氏は大内氏の重臣として石見国の守護代などを務めている。問田隆盛は陶晴賢の謀叛に荷担して大内義隆の追討軍となり、大内義長に仕えた。陶晴賢が厳島合戦で毛利元就に討たれると、問田隆盛は厳島から脱出し、陶氏の居城若山城に逃れていたが、杉重輔の挙兵により若山城は落城し、陶晴賢の嫡男陶長房とともに自刃して果てた。
問田氏館は姫山と今山の間にある問田にあり、中国道の南側付近にあったと云われる。 「日本城郭大系」によれば、「古井戸が残るが、城地としての特徴はない」と記してある。漠然とした位置しかわからず、遺構もわからないかった。