築城年代は定かではないが建久8年(1197年)頃に平子重経によって築かれたと云われる。 平子氏(たいらご/たいらこ)は相模豪族三浦氏の一族と云われ、平子重経は源頼朝の挙兵にしたがって石橋山の合戦などで功を挙げた。その恩賞として周防国吉敷郡の内、仁保・深野・長野・吉田・恒富、佐波郡多々良の地頭職を賜り、仁保庄に下向した。
貞応2年(1223年)重経は仁保庄地頭職を三男重資、恒富保を四男重継、深野の地を早世した長子重直の子重綱に譲った。嫡流は三男重資でその後、仁保氏を称した。
仁保氏は大内氏に従って代々続き、大内滅亡後は毛利氏に従った。仁保氏二十一代は吉川元春の二男が隆在の娘婿となり仁保元棟と名乗った。その後、元棟の娘婿となった神田元忠に仁保氏の名跡を譲り、元棟は繁沢氏康の養子となって繁沢元氏と名乗っている。江戸時代に入ってから毛利に復姓し、阿川毛利氏の祖となっている。
仁保氏の名跡を継いだ神田元忠は、三浦氏に復姓して三浦元忠と名乗り、以後代々毛利に従って萩藩大組四百八十石を領した。
平子氏館は山口市仁保下郷にある源久寺の北東側に築かれていたと云われる。 遺構はないが、道路沿いに「仁保氏館址」の石碑が建っている。
源久寺は初代平子重経が建立した寺院で、没後に菩提寺となった。この源久寺には木造平子重経坐像(国指定重要文化財)があり、平子重経のものとされる鎌倉時代の宝篋印塔も残されている。また墓地の一角に三浦元忠の宝篋印塔もある。
源久寺から東へ出た道路を北へ150m程進んだ所に石碑は建っている。
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