築城年代は定かではないが文明2年(1470年)に陶弘護が吉見氏に備えて築城されたものと考えられている。
天文19年(1550年)には陶晴賢が大内義隆を攻撃する前に大改修したという。厳島の合戦後、晴賢の子長房が守衛していたが、晴賢によって殺された杉氏の一党杉重輔が挙兵して押し寄せ、味方と間違えて城門を開いたところ攻められ落城した。
若山城は標高217mの若山に築かれており、現在は公園として整備されている。
若山城は山頂の主郭から東西に伸びた尾根に曲輪を展開している。 主郭はひときわ高く聳える山頂にあり、西下の曲輪ii、東下の曲輪vとの比高はかなりある。西側は途中に小さな段が少しある程度だが、東側は畑のような段が連なっている。主郭の北側面には畝状竪堀群があり、近年の整備によって見学し易くなっている。
主郭の東下にある曲輪v、viが現地の案内板で二の丸、三の丸と表記された曲輪で現在曲輪vが林道の終点駐車場となっている。曲輪viは改変が大きく現状曲輪かどうか判別できない。
主郭から西下に下ると石積遺構がある曲輪ii、iii(西の丸)と蔵屋敷と表記された曲輪ivがある。曲輪iiの石積は東面のみで、城内にはここにしか存在していない。ただ南に下ったところに同様な石積が確認できる。このあたりは後世畑として開墾されていたようで、石積をともなう段が無数に存在しているが、その多くの石積とは少し違った積み方をしている。曲輪iiの石積が城郭遺構なのか、畑など後世の改変なのかは判断が難しい。
国道2号線沿いに若山城へ案内が出ており、舗装された林道が城内まで通じている。ただし中央分離帯があり、上り車線から左折でしか入れないので注意が必要。
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