築城年代は定かではないが正平5年・観応元年(1350年)頃に陶弘政によって築かれたと云われる。
陶弘政は富田保を領して陶氏館に住んだ大内氏の重臣で、勝栄寺の開祖となり、開山は其阿上人によるものという。 寺の周囲には土塁と堀が巡らされ、出城的な城郭寺院であったと考えられている。
厳島合戦で陶晴賢を敗った毛利元就は、弘治3年(1557年)大内氏の本拠である周防・長門の平定に乗り出して、勝栄寺に陣を構えた。「三本の矢」で著名な三子教訓状はこの地で書かれたものとされる。
勝栄寺の境内に土塁が残されており、「勝栄寺土塁及び旧境内」として県指定史跡になっている。勝栄寺は時宗のお寺で山号は「出城山」ということからも出城としての役目があったと思われる。
残されている土塁は北から西側にかけて緩やかな円を描くようになっており、いわゆる方形居館とは異なるようである。案内板に記されている「寺社由来図」はやや丸みかがった長方形を描く。
新南陽駅北口から西へ300m程の所に勝栄寺がある。
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