慶安元年(1687年)毛利就隆によって築かれた。 就隆は毛利輝元の二男で元和3年(1617年)周防国都農郡を中心に三万石を分地されたことに始まる。
就隆は寛永2年(1625年)に下松に陣屋を構え、寛永11年(1634年)四万五千石の大名として正式に諸侯に列した。慶安元年(1648年)に野上村に居館を移し、慶安3年(1650年)に地名を徳山と改め徳山藩となった。
正徳5年(1715年)三代元次のとき、宗家である萩藩との境界にある松の木を巡って騒動となり、幕府から「本家に対する非礼」を理由に元次は改易、出羽国新庄藩へお預けとなって徳山藩領は萩藩に還付された。
享保4年(1719)領民の藩再興運動もあり、元次が家督を次男の元堯に譲って新たに三万石が与えられ徳山藩が再興となった。天保7年(1836年)就馴のとき幕府より城主格を賜り、石高も四万石に改められた。これによって「御館」と呼ばれていた居館は「御城」や「御殿」と呼ばれるようになった。
徳山陣屋は現在の周南市文化会館、徳山動物園一帯に築かれていた。 遺構はないが、周南市民文化会館の入口にある庭園の所に案内板が設置されており、近くには大坂城築城残石が置かれている。
徳山動物園との間にある祐綏神社は徳山藩毛利家の霊社で、下松から徳山に移ってから二百五十年を記念した紀年碑が建っている。
南の国道を挟んで周南市美術博物館があり、この脇に「徳山藩作事方跡」の碑がある。桜馬場通りに面した徳山小学校は徳山藩の藩校である鳴鳳館跡で石碑と案内板がある。大成寺は徳山藩毛利家の菩提寺で近くには徳山藩毛利家墓所がある。