築城年代は定かではない。
『日本城郭大系』によれば大内弘貞の次子末武助三郎弘勝の居城という。
『萩藩閥閲録 巻99ノ2 内藤小源田 49内藤肥後彦太郎藤時申軍忠事』では観応3年(正平7年、1352年)内藤藤時が末武城を構えて大内弘世に備えたことが記されている。
末武城は下松護国神社の南東背後に聳える標高135mの城山に築かれている。
主郭は山頂にあり「ユートピア神社」、「城山城主末武三郎戦死之地」の石碑がたっている。南下にも平坦面があるが、曲輪かどうかははっきり市内。主郭の北下に西側のみ竪堀1があるが、地形の改編があるので堀切の可能性がある。東下の堀切2はほぼ埋もれて浅く、さらに東の鉄塔の間にも堀切らしきく窪みが確認できる。
主郭の北端は緩やかに降り、二重堀切(竪堀)のような地形aがある。堀とするには主郭との間に切岸が全くないので不自然であり、その性格は不明だが雨などによる浸食であろうか。
北西麓に下松護国神社への参道入口があり駐車可能である。護国神社には明治維新の志士を祀った山添招魂社があり、その奥から鉄塔を経由して山頂に続く道がある。
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