築城年代は定かではない。
城主は杉次郎左門行並で天文24年(1555年)の厳島の戦いで討死したという。 その後、防長へ侵攻した毛利氏は杉元相に陶の旧領三千貫を与えて上徳地に、内藤隆春に下徳地に置いて守らせたという。
米光城は河内神社、伝福寺の北背後に聳える標高200m程の山に築かれている。半島状に東へ伸びた丘陵を島地川が大きく蛇行して天然の濠となる。
主郭は曲輪iでほぼ円形、南に通路があり西の曲輪iiと東の曲輪iiiを結ぶ通路から虎口へ繋がる。西の曲輪iiは西端に土塁があり、西尾根を堀切1で遮断する。東の曲輪iiiは東端からさらに一段下がった腰曲輪ivがある。この腰曲輪は内側に窪地がある。
東端から降りて行くと曲輪vがあるが、ここは城郭遺構ではないかもしれない。
伝福寺の境内入り口に倒れた標柱がある。ハッキリとして登山道はないのだが、一応河内神社の東側から葛籠折れの道がある。これを登るば曲輪iiiに至る。
最寄り駅(直線距離)