詳細不明。城主は吉見正頼あるいは内藤隆春という。内藤隆春は家督を譲ったのちに隠居地としてこの徳地へ移り片山に屋敷を構えて住み、この地で没した。内藤隆春の墓は片山に残る。
要害山城は標高409.2mの要害岳に築かれている。山頂付近は削平され曲輪として利用されていたようであるが、全体的明瞭な遺構に乏しい。北東へ続く尾根には遺構はなく、西へ続く尾根に所々切岸と小さな削平地がある程度で、堀切などは見あたらなかった。
登山道のある昌福寺から登ってそのまま下山したが、北西麓に内藤隆春の墓所があり、こちら側に遺構がある可能性もある。
南西麓にある昌福寺から登山道がある。本堂の西手にある神社脇から登っていく道と本堂の右手にある薬師堂の脇から登っていく道があり、途中で合流する。