築城年代は定かではないが永和4年(1378年)大内氏の家臣永富上総介嗣光が在城したのが始まりとされる。続いて応永15年(1408年)に相良民部少輔が在城したと云う。
大永7年(1527年)には内藤興盛の居城となり、この興盛の時に南の尾根続きにある青山城主高森内膳之助と「青山くずれ」と呼ばれる争いが起こった。(「青山くずれ」に関しては青山城を参照)。内藤興盛は後に長門国守護代となり櫛崎城へと移った。
陶晴賢を厳島合戦で敗った毛利元就はすぐさま周防国・長門国へ侵攻し、弘治3年(1557年)には周防国高嶺城に攻め寄ると、大内義長は内藤隆世(内藤興盛の孫)を頼って且山城へ逃れた。毛利氏の軍勢は且山城を取り囲んで攻め寄せ、外城を落とし本丸を残すのみとなったところで城内に矢文を放ち「内藤隆世は毛利父子に遺恨があるので自決すれば、義長のことは問わぬ」と伝えた。 隆世は切腹し義長は城を出て兄である大友義鎮を頼って九州を目指したが、叶わず長福院(現在の功山寺)にて自刃した。
その後は南条宗勝、山田重直が在城したという。
且山城は標高361mの勝山山頂に築かれている。現在は山頂まで登山道が整備されている。
且山城のある勝山は山頂付近は西を除く三方が険しく切り立っており天然の要害地形となっている。主郭は山頂で東西に長く、東端と西端が一段高い。この間の部分に登ってくる道があり、これはそのまま本来の曲輪間の通路と思われる。東端と西端はともに若干の土塁が付いている。
主郭から南へ伸びた尾根に曲輪iiとiiiがあり、さらに下方に小さな段曲輪を備える。主郭の南下には帯曲輪ivがあり、西尾根側には土塁を残している。曲輪ivに至るまでには城内でもっとも高い石垣がある。石積は他に曲輪ivの土塁の外側、曲輪viにも確認できる。西へ伸びた尾根は堀1で遮断しており、堀切と二条の竪堀で遮断している。
西尾根はやや堀切状に削られた鞍部があり、その上に曲輪vがある。曲輪vは削平や切岸が甘く小さな段曲輪を備え、堀切2で西尾根を遮断している。この曲輪群は現在の主郭部の遺構より古い時代のものと思われる。
主郭部から北東へ降った先に井戸がある。切り立った岩の下に石積を伴う凹みがあり、水を溜めていたものだろうか。
曲輪viは最高所は北西側に土塁状の高まりがあり、南東へ三段の曲輪がある。途中北東側に土塁があり、付け根が開口して外側へ至る山道があり、その下方には畝状竪堀群らしき遺構がある。
曲輪viから尾根を降ると二段になった曲輪viiがあるが、この平段は切岸が甘く遺構かどうかの判断が難しい、そこから登った所には「出城」と標識が出ている所があり曲輪viiiとしてみたが、遺構ではなさそうである。
駐車場は勝山御殿にある。ここから四王司山、勝山、青山への登山ルートが整備されており周遊することも可能である。且山城へは途中「近道」と記された道があり、こちらから登る方が早く楽である。
最寄り駅(直線距離)