築城年代は定かではないが南北朝時代に厚東武実によって築かれたと云われる。
厚東氏は厚狭郡を本貫とし霜降城を居城としていたが、武実の時に南朝方として長門探題の北条時直を攻めて追い払い、長門国守護となる。
貞和4年(1348年)武実の子厚東武村が守護となり、守護代として富永武通を四王司山城に入れ、後に自ら四王司山城に入った。正平6年(1351年)大内弘世は陶弘綱に兵を与えて四王司山城を攻め半年に及ぶ攻防が行われ、ついに武村は討死して落城した。
城は標高392mの四王司山に築かれている。 城の縄張に関しては良くわからないが山頂の毘沙門堂跡の所に案内板があり、毘沙門堂跡の立て札に曲輪跡と記されている。
山上は思いのほか広くなだらかで、曲輪跡とも思える階段状の平坦地が残る。 毘沙門堂跡の近くに厚東武村の墓とされる墓石が残る。
登山道は南東麓の石鎚神社、南西麓の勝山御殿、西側の勝山城からの尾根伝いの道がある。
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