江戸時代末期に萩藩毛利氏によって築かれた台場である。 前田の地には高低二ヶ所(御茶屋台場と高台場)の台場が設けられた。
文久3年(1863年)5月10日米国商船ペンブローグ号に対して萩藩の軍艦三隻(庚申丸・癸亥丸・壬戌丸)と前田台場など下関側の台場から一斉砲撃が加えられ、馬関戦争が始まった。5月23日には仏国軍艦キンシャン号、5月26日には蘭国軍艦メデュサ号にも砲撃が加えられた。
6月1日には米国軍艦ワイオミング号が報復攻撃のために馬関に現れ、庚申丸と壬戌丸は撃沈され癸亥丸も甚大な被害を出した。6月5日仏国軍艦セミラミス号と交戦し前田の高低台場はともに陥落し占拠され大砲などが戦利品として接収された。
さらに元治元年(1864年)8月4日米英仏蘭の四ヶ国の連合艦隊が馬関に集結し第二次馬関戦争が始まる。下関に配備された台場から一斉に応戦するも火力にまさる連合艦隊の前に押され、8月6日には連合軍の上陸作戦が開始され、翌日には全ての台場が陥落し占拠された。
国道9号線沿いに道標があり、駐車場も完備され一部の地が案内板を設置して公開されている。
戦利品として接収された大砲のうち一門が長府博物館に展示されているという。