建長4年(1252年)三井資平によって築かれたと云われる。 三井氏は建長4年(1252年)長門国守護職となった信濃四郎左衛門尉行忠のとき、この地に下向した三井宮内左衛門資平が豊西郡富任別府に居住したのが始まりとされ、これが三井館だと考えられている。
資平の息男は愁有って上洛する折りに周防国下松沖で難破して溺死し、その嫡男孫五郎資基は同郡室津郷へ移り住み、資平以来、資信・資重・資基の四代の居館であったと考えられている。
三井氏は後に毛利氏に従い防長二ヶ国に転封後は周防国熊毛郡嶋田に五百石を領した。
館は富任八幡宮の南側に築かれており、やや南北に長い方形の館で、土塁と濠を巡らせてあったようである。
現在は北東端と西側の土塁と濠が生い茂った薮の中に残されている。
富任八幡宮が目印。富任八幡宮は南側に鳥居が東西に二基あるが、東側の鳥居から南へ向かい直ぐ右側の田が館跡である。田の北側が薮となっているがこの中に土塁と濠が残っている。
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